2009年08月25日

支那武術由来記(三)

(三)
 私は或る信念に基づいて事変後支那の各級学校に「國術」を正科として課することにしたのであるが其時流派の系統を正したのであつた。
 種々さまざま流派があり盛観であるが凡そ二つに大別さるる。硬工夫(インコンフ)と軟功夫(ルワンコンフ)と。即ち外功と内功とに分かたれるのである。外功とは、或は外家とも呼ばるる俗称硬工夫のことで、これは「外筋肉を錬り内丹田を修す、其極に至るや動よりして静を生じ亦剛亦柔」を主張するが、端的には剛を主とし「人を搏つ」ことが尚ばれる。これに反し内功とは或は内家とも呼ばれ俗称では軟工夫として通るもので、「内丹田を錬り外拳式を演ず、其極に至るや静よりして動に化し亦柔亦剛」を説くも、要は柔を主とし敵を*ぐことを以て能とされる。
 かかる外家の師祖は達磨であり、そして、内家の太宗は張三?と云はる。而かも不思議にも此等二人は揃ひも揃つて宗教界の人々である。達磨は六朝の佛教僧で禅宗開山第一の人であり、其遺址は今日なほ河南省嵩山の少林寺に歴然として存し。張三?は明代道教の道士で自自然派の租師として有名であり、湖北省武當山の道観がその住址であつた。かうした因縁で一を少林寺派と云ひ、一を武當山派と云ふこともある。
 若し夫れ比等を日本内地に於けるものに比較し得るものを求むるならば、最近有名になりつつある植芝守高先生率ゆる所の皇武曾と武當山派とは相通のものであり、富名腰義珍先生統ぶる所の空手道と少林寺派とは相近のものにはあらざるかと想像される。
 さて私はこれより両家の武術としての技について述べなけれぱならないであらう。或は彼等が裂帛の気合諸共拳手で自然石を叩き壊したり、或は掛声と共に家屋の上に飛上つたりすることなども詳しく記すべきであらう。然して更に武術とは「両々相交ふる瞬聞に生死を決する」ものにして「相手を倒すか己れ死すか、唯一撃の真髄!」こそ父租伝来の教なりと誇る絶対の極意を紙上に躍動せしむべきであらう。だが、興へられた紙数は已に尽きた。願くば拙著「通背拳法(トンペイチュワンフハ)」 (北京琉璃廠北京商務印書館発行)に就いて必要なる結論を得られんことを。
**は***華北******

(タイトルのそば欄外に以下の手書き文章)
************」
**(華北交通KK*業局発行、
**加*新*)

最後の1行と欄外の手書きはこの文章が掲載された雑誌(?)に関するものではないかと思われます。
その中で読み取れる単語「華北交通株式会社(「KK」は株式会社の頭文字と思われる)」は、南満州鉄道のグループ会社で、中国華北地方(北京とか天津とか)の鉄道・バスの運行を担っていた日本の国策会社(昭和13〜20年)。この華北交通株式会社が発行にかかわった機関紙か何かにこの文章が出ているのかもしれません。
ネットで情報が行きかう現代なら、いつか誰か知っている人に出会えそうな気はします。武田先生が書かれたという「黄河流域の拳法について」もいつか読んでみたいものです。
posted by わたる at 22:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 民間武術