2009年02月28日

支那武術由来記

これは通背拳の武田熈先生が何かの雑誌に載せた文章です。
ボクの友人が武田先生から直接コピーをもらい、ボクはさらにそのコピーをもらいました。
以前データとして保存しようと入力しましたが、途中で終わっています。識別できなかった部分は空白になっています。
完成させたいのですが、コピーが今、見あたりません(^_^;
著作権的にどうなのかは微妙ですが、貴重な資料なのでたくさんの人の目に触れた方が良いと思い掲載します。

支那武術由来記  武田 熈    
(一)
『王向斉なるものあり、自ら大成拳の鼻祖宗師と称し他の門派を蔑視すること甚だしきを以て我等一同公衆の面前に於いて勝負を決し度きにつき審判の役を御承引願上度候』−−−という手紙が数日前私宛に送達されて来た。差出人は「北京武術家一同」とあった。
 支那には庶民相手の小型新聞が存在してゐる。所謂小報と呼ばれるものであるが、この小報のうちで北京で最も素行のいい 報と新北京とに王向斉なる仁の人を喰った談話が数日間掲載された。それは六月の半頃であった。そこで武術界には一時に、夏蝉の如くかますびしい声が湧き起こった。その結果が上記の手紙となつた次第であらう。
 そうだ−−−かうした事件は度々あるそのうち私がまだ忘れ得ない大きな事件が二つ三つある。その中の一つ−−−−丁度私が北京大学に在学してゐた頃、北京の中央公園にある行健会と呼ばれる武術倶楽部に某日一人の青年が訪れた。そして  低声、師範役へ向つて「一本御指南を」と申し込んだ。これが武術界に暴風を巻き起こす事となつたのである。説に曰く、其青年の父は以前行健会師範役であつたといふ。過ぐる年他流試合を申込まれこれに応じたのであるが相手の暗器(隠し道具)のため遂に倒された。そして自己の不覚と相手の不信とを憤りつつ果敢なく死んで行つた。これを見た遺されたる児と其母は「敵討ち」の念が火と燃えたが何分にもか弱い母子では如何とも仕方がなかつた。そこで、定石通り武者修行の旅へ立つこととなつた。春風秋雨廿年、歳月は瞬くまに過ぎた。もうすつかり自信を獲得した遺児は愈愈其目的を達すべく、勇んで各處に敵を捜しつつ北京に乗込んだ。不倶 天の かも今では父の地位の  者となつてゐる敵を直ちに発見した。そこで、行健会師範にかくは試合を挑んだのであつた。だから、立上がるや否や青年には「目  く裂け」と云つた程に、もうすつかり殺氣が充満いてゐた。無理はないと、見る間もあらばこそ忽ちにして相手を二三間も彼方に投げつけてゐた。青年は容を正して厳然、天日を指して宣言した「亡父の遺恨を今日こそ晴らしたり」と。さあ問題だ。「初心を装うて仇討ち呼ばはりとは不 至極!」と、 し敗者にも三分の理だ。そしてこの問題を大衆討議に付し自己へ同情を集めようと策した。すると未亡人たる青年の母が群衆を押分けて出で来たり「悪人にも似合はず何たる卑怯な振舞よな。いざさらば妾が相手となり申さん」とやり出した。で、争ひは火に油を注いで、 然たるものとなつて行つた。我々は手に汗を握り、片唾を呑んで凝視した−−が、終に知らせによつて馳つけて来た時の北京市長の仲裁によつて、兎に角この場は落着したのであつた。
posted by わたる at 02:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 民間武術
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