2011年01月10日

鑽拳(武術の話題)

通背五行掌から三つを選ぶとしたら、オレは迷いなく[才率]、拍、鑽。
自分で言うのもナンだけど、この三つはオレの中で威力的にはそこそこ使えるレベルに仕上がって来ていると思う。
指導する時は満遍なくいろいろな技をやったほうが良いんだろうけど、やっぱりオレが好きな技が多くなる。なので群馬支部では[才率]、拍、鑽の練習は多い。
[才率]と拍は、こうすれば出来るようになるって教え方がオレ的にはだいたい出来てきていて、みんな割と身につけられるようになってきている。人によってはオレより良いんじゃない?ってのも。
でも、鑽は難しい。
[才率]と拍は、最初、手(腕)の動きだけでもコツをつかめば(但し余分な力が抜ければ)そこそこ通背の威力が出て、そのあと、身体のいろいろな部分を連動させていけばさらに威力があがってくる。
でも、鑽は手だけじゃダメ。最初から全身を連動させないと通背的威力が出ない。そこが難しいところなんだと思う。(特に武術初心者には)
動き自体は他流の「突き」と似ているから、他流をやっていた人は、最初はその動きで鑽を行う。威力のある突きで、見た目も鑽だけど、鑽の力とは違う。他流で培った力が悪いとは思わないけど、それをそのまま通背の動きの中(散手)で使おうとするとリズムとかタイミングとか技の間合いが合わない。(鑽の間合いは思ったより近い)鑽の動きが出来た上で他流で培った威力を乗せればさらによくなると思うけど、逆のパターンはなかなか難しいかもしれない。そのあたりが、武術経験者にも鑽が難しい理由なんじゃないかな?
短い距離から突くってのは鑽の力の出し方の理解を助ける方法の一つだとは思うけど、もう少し良い教え方を考えてみないと。
鑽拳は腰力、そしてイメージは錐。
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2010年03月07日

「オレの知ってる先生の武勇伝」その3

短い話しなので二ついきます。

「電車吊革事件」
先生から聞いた話し。
割と混んでる都内の電車内でのこと。
先生が吊革につかまって立っていると、隣りに立っていた一見リーマン(注:サラリーマン)風の男が肘をグイグイ、グイグイおしてくる。
ヨドバシ事件から年数も経って、多少温和になった先生は「アナタ何するの?」と問いただした。
しかし、男は無言であいかわらずグイグイ。
ちっこい中年のおっさんが何を言うとでも思ったのか。
バカな男よ。やはり[才率]を喰らい、謝ることになったという。

教訓
「人はみかけによらぬもの」
「電車の中ではお行儀よくしましょう」
「人からモノをたずねられたらキチンと返事をしましょう」



「仕事絡み格闘技男事件」

やはり先生から聞いた話し。
仕事でとある会社に行った時のこと。
仕事の話しも終わり、向こうの社員と世間話をしているうちに先生が中国武術をやっていることに話しが及ぶとその場にいた外国人が興味を示す。
自分はある格闘技をやっていると言う。
中国の武術はどうなんだ?オレのやってるのはこんなにスゴイぞ、おらおらぁ〜と先生を挑発しだした。
得意先でのことでもあるし、最初は大目に見ていた先生も遂にプッツン。
カレの得意な蹴りに合わせて、繰り出された通背三絶招の一つ、断魂掌(鑽拳)炸裂!
哀れ自称格闘技男は失神したそうな。

語句解説(出典:民間武術探検隊辞典(技術編))

○通背三絶掌
  迷魂掌、追魂掌、断魂掌の三つ。それぞれ拍掌、鑽拳、撩陰掌の別名である。

○透骨拳
  中指の第二関節を突き出すように握る。うちでは表の握り方と裏の握り方の2種類がある。表は普通のヤツに、裏はイヤなヤツに使え!この時、裏の握りを使ったかは不明。
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「オレの知ってる先生の武勇伝」その2

この話しはオレより2コ下だけど師兄のじゃいとうくんが書いたものです。
特に掲載許可はもらってませんが、ゆるいカレのこときっとOKをくれるでしょう。
一部(流派名とか)を伏せて掲載します。

自由が丘「他流派見学者撃破事件」

あれはまだ俺が自由が丘日曜日教室に通っていた頃だから・・・!学生時代だ!
俺ともうひとりS本というタメ年の奴とで目撃した話しだ。
けっこう有名な話しと思うが、一応。

眼鏡をかけた見学者が、始まってすぐ教室にはいってきた。
「見学か・・・」
とおもいつつ、気にせず練習。
(あの頃は体の切れがよかったよな・・・)
練習終了後、老師のほうから近寄って行って、
「どうだった?」っつう感じでフレンドリィに語りかけた。
奴のほうはおそらく、
「伸肩法ってどうやるんですか?」と聞いたのだろう
「手を出して」
つって対練形式で老師は親切に教えてやったのだ。
(さぁ、奴はなんていうかな?)
なんてS本とみていたら、どうも力が入っているようでガクガクしてるわけよ。
たぶん、老師をテストしようとしやがったんだろう。
完全に推測だけど、そんな印象だった。
「力をぬいて」
つっていいながらもなおも老師は親切に教授していたのだが
だんだん回転がはやくなっていって
(・・・?・・・!!)と思ったときには
右転換掌 左転換掌 左横[才率]
のいつも教わっているコンビネーションがきれいに奴の顔面に決まり、眼鏡まっぷたつ。
「あなたどういうつもり?!やるの?!」
老師はすでに戦闘モード。
(流血はまずいのでは!)なんて殊勝なことをあのころは思っちまってS本と二人で
「老師まあまあ!!」なんつって間にはいってとめちまったんよ。

「奴」のほうはすっかり勢いなくしちまって
「はぁ、はぁ、すいません、すいません...」
つってすっかり恐縮しちまって、まさにスゴスゴと帰っていきました。

その後、とある門派のとあるお方から老師のもとにtelがあり
「奴はやめさせました」との事だった。

唯一の目撃例でした。

*注 門派に優劣はなく、あくまでも優劣は修行者各人の功夫によります。
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「オレの知ってる先生の武勇伝」シリーズ

現代では試合などの特別な状況を除き、日常で武術を使ったら余程のことがない限り非合法的な行いとみなされ、処罰の対象となるでしょう。
とは言え、先生や兄弟子の武勇伝にロマンを感じてしまうのもオトコのサガ。
昔、協会のメーリングリストに流した話しを公開します。
もう何十年も前の話しだし、時効かな?と。

先ずは一部では割と有名な「ヨドバシカメラ事件」

ある日、師父は「ねがら」の趙玉祥老師がカメラが欲しいと言うので、新宿のヨドバシカメラへ向かった。
たくさんのカメラを前に品定めをする二人。もちろん会話は中国語だ。
話しをするばかりで、買いそうもない二人に店員がボソッと一言。
「買えもしないのに、中国人がっ」
その言葉が発せられた刹那、[才率]一閃、店内に響き渡る炸裂音!崩れ落ちる店員...。
流石「快手」の異名を持つ、「論より手が先」我らが師父。
無礼なヤツには容赦はしないぜ。
平謝りに謝る店員は、かなり割引してくれたという。
師父曰く「おかげで安く買えたネ」
ある師兄弟の説によると、金額は半額になったと言う。
「[才率]一発で半額なら、もう一発打てば、また半額になったネ」と師父は言ったというがそれはナイとボクは思う。

*一部脚色してますが、師父から聞いた話しです。

*今はお金持ちの中国人が大挙してアキバとかに買い物に来ているようですが、昔は一般的にはそうではありませんでした。

語句解説(出典:民間武術探検隊辞典(人物編、基礎用語編、諺編))
○「ねがら」
 趙玉祥老師の口癖。「〜〜ねがら」とよく言う。中国語は哈爾濱訛り、日本語は茨城訛り。聞き慣れないと聞き取りは難しい。

○「快手」
 手技の早い民間武術家によくつけられる渾名(あだな)。女に手の速いヤツに使われることもある。

○「論より手が先」
 残留孤児で日本語をうまく話せない師父が口より先に手が出ることをあらわした諺。本質的に短気であると言う人もいますが(汗)
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2010年02月08日

オフのお知らせ

ここを読んでるFBUDOな方々へ
(ハル)を見た細君(あとみ)から「昔の面子で集まりたいから企画して!」と指令が出たのでお誘いです。
2月27日(土)に「FBUDO同窓会オフ」を企画したいと思います。
27日の昼に大連(田町)で餃子食って、どこかでカラオケと考えてます。
オレとしては午前中2時間くらい練習して、大連に乗り込みたいところですが、あとみはそれは希望していないからどうでも良いそうです。
企画しておきながらナンですが、お店探しとか手配とかのお手伝いをして下さる方も募集します。
いかがでしょう?ご連絡お待ちしております。wataru@tongbei.com
(昔のFBUDOメンバーとその知り合いを対象と考えています)

スケジュール案(移動時間はまだ考えてません)
10:00〜12:00 アバレ(場所未定)
12:00〜14:00 大連
14:00〜17:00 カラオケ(場所未定)
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2009年08月25日

支那武術由来記(三)

(三)
 私は或る信念に基づいて事変後支那の各級学校に「國術」を正科として課することにしたのであるが其時流派の系統を正したのであつた。
 種々さまざま流派があり盛観であるが凡そ二つに大別さるる。硬工夫(インコンフ)と軟功夫(ルワンコンフ)と。即ち外功と内功とに分かたれるのである。外功とは、或は外家とも呼ばるる俗称硬工夫のことで、これは「外筋肉を錬り内丹田を修す、其極に至るや動よりして静を生じ亦剛亦柔」を主張するが、端的には剛を主とし「人を搏つ」ことが尚ばれる。これに反し内功とは或は内家とも呼ばれ俗称では軟工夫として通るもので、「内丹田を錬り外拳式を演ず、其極に至るや静よりして動に化し亦柔亦剛」を説くも、要は柔を主とし敵を*ぐことを以て能とされる。
 かかる外家の師祖は達磨であり、そして、内家の太宗は張三?と云はる。而かも不思議にも此等二人は揃ひも揃つて宗教界の人々である。達磨は六朝の佛教僧で禅宗開山第一の人であり、其遺址は今日なほ河南省嵩山の少林寺に歴然として存し。張三?は明代道教の道士で自自然派の租師として有名であり、湖北省武當山の道観がその住址であつた。かうした因縁で一を少林寺派と云ひ、一を武當山派と云ふこともある。
 若し夫れ比等を日本内地に於けるものに比較し得るものを求むるならば、最近有名になりつつある植芝守高先生率ゆる所の皇武曾と武當山派とは相通のものであり、富名腰義珍先生統ぶる所の空手道と少林寺派とは相近のものにはあらざるかと想像される。
 さて私はこれより両家の武術としての技について述べなけれぱならないであらう。或は彼等が裂帛の気合諸共拳手で自然石を叩き壊したり、或は掛声と共に家屋の上に飛上つたりすることなども詳しく記すべきであらう。然して更に武術とは「両々相交ふる瞬聞に生死を決する」ものにして「相手を倒すか己れ死すか、唯一撃の真髄!」こそ父租伝来の教なりと誇る絶対の極意を紙上に躍動せしむべきであらう。だが、興へられた紙数は已に尽きた。願くば拙著「通背拳法(トンペイチュワンフハ)」 (北京琉璃廠北京商務印書館発行)に就いて必要なる結論を得られんことを。
**は***華北******

(タイトルのそば欄外に以下の手書き文章)
************」
**(華北交通KK*業局発行、
**加*新*)

最後の1行と欄外の手書きはこの文章が掲載された雑誌(?)に関するものではないかと思われます。
その中で読み取れる単語「華北交通株式会社(「KK」は株式会社の頭文字と思われる)」は、南満州鉄道のグループ会社で、中国華北地方(北京とか天津とか)の鉄道・バスの運行を担っていた日本の国策会社(昭和13〜20年)。この華北交通株式会社が発行にかかわった機関紙か何かにこの文章が出ているのかもしれません。
ネットで情報が行きかう現代なら、いつか誰か知っている人に出会えそうな気はします。武田先生が書かれたという「黄河流域の拳法について」もいつか読んでみたいものです。
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2009年03月15日

支那武術由来記(二)

支那武術は現在ではこれを『國術』と称することになつてゐる。一体支那武術は何時の頃かららあつたのであらうか。詩経の小雅に「無拳無勇、職為乱階」とあり、また、春秋の*公廿八年に「晋侠夢和楚子傳」とある。 相当太古より存在したらしいことが想像される。支那人は何事に限らず古いこととそして自國のものと云ふことに誇りを感ずるのであるが、武術に於てもその通りで、彼等の説に拠ると武術は黄帝の創案に係るもので、蚩尤と戦つた時には武術に長けてゐたが故に黄帝軍が勝利を得たのだと傳ふ。然し兵器は或は然らん、拳法はさて如何?恐らくは今日の如き形を整へたのは正しく後漢以後にあらう。しかも流派を称するに至つたのは六朝頃より始つたものであらう。以下現代の武術について述ぺてみよう。
 國術ーー
國術とは我民族固有の技能で一代一代と相傳し来りしところの一種の武藝の意味に外ならない。若し学術*科について論ずるならば一國には一國の文学即國学があると同様に、一國には一國の武術即國術があるべきである。かうした観点より民國十六年以来我等は國術の名称を訂定したのである。(中央國術館周刊第一〇八期)
 我等はここで注意しなけれぱならないのは、かくの如くして「國術」を提唱しつつあつても其実支那武術は従来の「武術」と云ふ観念よりは少しく違つたものとなつてきたことである。國術指導者たちは一斉に次のやうに云つてゐるー
(一)國術は手眼身歩を鍛錬の本体となすを以て百肢百体は協同の動作となる。従つて、一肢体に偏すと云ふ病弊なし
(二)國術は生理学に適合したるものなるを以て神気の増進と血脈の調和を来す。従て百利ありて一害なし
(三)國術は経済的束縛を受くることなきを以て貧富を間はず老幼男女を分たずしかも相手と場所を選ぶことなく練習し得
(四)國術は体用兼備なるを以て強身強種たり得しかも白兵格闘の用に亦役立つ
(五)國術は一種の優美なる鍛錬なるを以て能く*深なるを得ぱ風虎雲龍の変化自在にして体育上興味と美感とを増加す
 此くの如くして彼等は武術と云ふよりは主として体育としてのものに価値と重点とを置いたのである。否、体育化に努力しだしたのだと云ふぺぎであらう。そして他面に於ては斯うした機運を乙醸成させることによつて武術家の所謂「門戸の見」を消算せしむると共に雲霞の如く数多き諸流派を集大成し茲に新たなる形を造成しよう、云はば武術の統一運動を促進しようと志したのであつた。
 ところが、第一にこの体育化提唱に絶対反対の烽火が挙がつた。また、反統一運動が洪水の如き勢をもつて蔓延しだした。かかる混沌たる間に支那事変は勃発したのである。
 だが、我等が銘記すべきは此等諸説を貫いて其底を流れつつあつた理念は唯だ一つであつたと云うことである。基本的理念は次の如くに思はれた−−−
「強國は強種より、そして強種は強身より!だ。支那の欠点は科学文明に起ち遅れてゐる事であるが、それにもまして其欠点は”東亜病父”と綽名さるる程に國民の体格が弱いことにある。孫中山は我等に遺言された、和平、奮闘、救中國!と。我等は何がために奮闘しなければならぬか?それは和平のためだ。如何にせば和平が得らるるか?それは奮闘によるのみだ。然らば我等は何に*つて奮闘するのか。それは國術を研錬するより以外に途はない」

※誤字や脱字と思われるところもありますが、原文通りに打ちました。
旧漢字は変換できたものはそのまま、探すのが難しかったのは今の漢字で打ちました。
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2009年02月28日

支那武術由来記

これは通背拳の武田熈先生が何かの雑誌に載せた文章です。
ボクの友人が武田先生から直接コピーをもらい、ボクはさらにそのコピーをもらいました。
以前データとして保存しようと入力しましたが、途中で終わっています。識別できなかった部分は空白になっています。
完成させたいのですが、コピーが今、見あたりません(^_^;
著作権的にどうなのかは微妙ですが、貴重な資料なのでたくさんの人の目に触れた方が良いと思い掲載します。

支那武術由来記  武田 熈    
(一)
『王向斉なるものあり、自ら大成拳の鼻祖宗師と称し他の門派を蔑視すること甚だしきを以て我等一同公衆の面前に於いて勝負を決し度きにつき審判の役を御承引願上度候』−−−という手紙が数日前私宛に送達されて来た。差出人は「北京武術家一同」とあった。
 支那には庶民相手の小型新聞が存在してゐる。所謂小報と呼ばれるものであるが、この小報のうちで北京で最も素行のいい 報と新北京とに王向斉なる仁の人を喰った談話が数日間掲載された。それは六月の半頃であった。そこで武術界には一時に、夏蝉の如くかますびしい声が湧き起こった。その結果が上記の手紙となつた次第であらう。
 そうだ−−−かうした事件は度々あるそのうち私がまだ忘れ得ない大きな事件が二つ三つある。その中の一つ−−−−丁度私が北京大学に在学してゐた頃、北京の中央公園にある行健会と呼ばれる武術倶楽部に某日一人の青年が訪れた。そして  低声、師範役へ向つて「一本御指南を」と申し込んだ。これが武術界に暴風を巻き起こす事となつたのである。説に曰く、其青年の父は以前行健会師範役であつたといふ。過ぐる年他流試合を申込まれこれに応じたのであるが相手の暗器(隠し道具)のため遂に倒された。そして自己の不覚と相手の不信とを憤りつつ果敢なく死んで行つた。これを見た遺されたる児と其母は「敵討ち」の念が火と燃えたが何分にもか弱い母子では如何とも仕方がなかつた。そこで、定石通り武者修行の旅へ立つこととなつた。春風秋雨廿年、歳月は瞬くまに過ぎた。もうすつかり自信を獲得した遺児は愈愈其目的を達すべく、勇んで各處に敵を捜しつつ北京に乗込んだ。不倶 天の かも今では父の地位の  者となつてゐる敵を直ちに発見した。そこで、行健会師範にかくは試合を挑んだのであつた。だから、立上がるや否や青年には「目  く裂け」と云つた程に、もうすつかり殺氣が充満いてゐた。無理はないと、見る間もあらばこそ忽ちにして相手を二三間も彼方に投げつけてゐた。青年は容を正して厳然、天日を指して宣言した「亡父の遺恨を今日こそ晴らしたり」と。さあ問題だ。「初心を装うて仇討ち呼ばはりとは不 至極!」と、 し敗者にも三分の理だ。そしてこの問題を大衆討議に付し自己へ同情を集めようと策した。すると未亡人たる青年の母が群衆を押分けて出で来たり「悪人にも似合はず何たる卑怯な振舞よな。いざさらば妾が相手となり申さん」とやり出した。で、争ひは火に油を注いで、 然たるものとなつて行つた。我々は手に汗を握り、片唾を呑んで凝視した−−が、終に知らせによつて馳つけて来た時の北京市長の仲裁によつて、兎に角この場は落着したのであつた。
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2009年02月26日

謎のおっさん

遭遇
2006年08月23日21:54
先週の土曜、セガレがカブトを捕りに行きたいというので近くの古墳に早起きしてGO!
間もなく「うんちがしたい!」と言うので急いでちょっと離れたコンビニに。途中野球場のバックネットに脚をかけているじーさんが。「じーさんなのに圧腿みたいなことしてるなー」と思ったけど「まさかね...」。
戻ってくるとさっきのおっさん(よく見るとじーさんよりは若い。が中年)陳式やってる。
「やっぱ圧腿だったんだー。後で話しかけるかなー」しかし、セガレが「速く速く」というので再び山へ。結局、収穫はカマキリ2匹。「もう、いい」というセガレを連れ、さっきのおっさんのとこへ。
一足違いでチャリで帰るトコ。チャリのサドルが異様に高く、おそらく中国人だろうと思う(顔も頑強なアゴが中国人っぽい)。結局話しかけず終い。確認はできなかったが、オレの民間武術探検隊の血が騒ぐ。おっさん、生粋の民間武術家と見た。

イブの朝
2006年12月25日23:42
例の中国人(断定)が練習している公園に馬の神様(ハニワ)を見に子どもとイブの朝出かける。寒い中、チャリをこいで行くと(子どもがチャリで行きたいと言うので)、陳式をしている民間人が。お、例のおっさんか!と思い、今日こそは話しかけるぞ!と気合を注入!。しかし、ちょっと目を離したスキにおっさんを見失い、むむむっと思っていると、槍の素振りをしながらデカイ公園をぐる〜〜〜っと回っているのに気づく。ほどなくして我々のそばにあらわれたおっさん。以前見たときとはちょっと様子が違うが、薄汚れたトレーナーに軍手着用、槍はおそらく鉄パイプにビニールテープを巻いたような(しかもいびつに微妙に曲がっている)シロモノ、無精ひげ加減も間違いなく100%民間中国人。オレは元気よく「おはようございます!」と話しかけてみた。おっさんは一瞬たじろいだように呻く。日本語がそんなにうまくないんだ!もう120%確実!「悠是中国人口馬?(中国人ですか?)」と中国語で話しかる。しかし!意に反して返ってきたのは「え、なんですか?」という流暢な日本語(^_^;日本人だったよ。話しをするとオレが一番始めに武術を習った精武体育会日本支部の人。故伊藤先生の事などをいろいろ話す。先生亡き後も有志で高崎武道館で活動を続けているそうな。今度時間を作って練習に行ってみたい。

*やはり昔mixiに書いたものです。
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2007年08月28日

遠方より友来る 亦楽しからずや

日曜の練習に古くからの武術仲間が来てくれた。
一人はここ数年同じ公園で練習をするので割と会ってるけど(でも遠くから来てる)
もう一人は何年ぶりかな?かなり久しぶり。
オレが今こうして通背をやっているのはあの時、カレと出会ったから。

昔そいつとの出会いを書いたものをちょっと手直しして載せときます。

ボクは中学の時、陸上をやっていた。
3年間がんばったけど、大した成績は残せなかった。
同級生の中にそれほど練習はしないけど、背が高くて良い記録を残した友達がいて(走り高跳びをやってた)、陸上は努力よりも持って生まれた資質(身体とか)が左右するなぁと思った。
今思えば努力が足りなかったんだろうけど、当時はそう思って、高校に入ったら努力すればそれに見合った成果がある、もしくは自分の才能にあったなにかをみつけたいと思っていた。
高校に入る前の春休み、家でたまたま新聞を見てたら、中国武術(螳螂拳、太極拳)を市の武道館で教えると出ていた。
それを見たら、それがなにかはわからないけれど無性にやりたくなった。
それまで武術なんて縁がなかったし、自分から習い事に行きたいなんて言ったことのないボクにすれば意外なことだった。
そうして中国武術に出会った。
そこでは自分で言うのもなんだけど、ホント一所懸命練習した。
自分なりにそこそこうまくなったと感じたし、練習も楽しかった。
月水金の夜(放課後)、火木の朝(通学前)、日曜の昼に練習があって、その全てに参加していた(自転車で10数キロの距離を通った)。
でも、高校三年の夏、訳あって、そこをやめることになった。
その後、一人で練習を続けながら、良い先生をさがしていた。
大学2年の最初の授業の時、武術好きの友人(躰道部)と中国武術の話しをしていると前の席の男が振り返った。
2年になって、よその部から転部してきたヤツだった(ボクらは中国語学科)。
「君たち武術やってるの?」とそいつは話しかけてきた。
「武術なんてねー、大変なだけだよ。やらないほうが良いよ」と不敵な笑みを浮かべながら話してきたが、それは本心ではない事はわかった。
その次の授業は、選択授業の体育だった。ボクは柔道を選択していた。
柔道場に行くと、またそいつがいた。また武術の話しをした。
柔道が終わった後、「じゃあ、軽く組手でもやろうか」とそいつが言った。
二人で体育館の裏へ行き、組手をやった。
そいつは今まで見たことのない奇妙な動きから素早い威力のある攻撃をしてきて、ボクはボコボコにされた。
手も足も出なかった。
その後、お互いの技を見せ合ったが、同じ名前の技でも、そいつのとボクのとでは、速度も威力もまるで別物。
自分が今までやってきたこと全てが無駄なことに思えた。苦しかった。
いっそ武術をやめてしまおうかと思った。そのほうが楽になるかなと思った。
数日後、そいつと会うと「一生懸命練習してるみたいだから、ボクと一緒に練習しないか?」と誘ってくれた。
うれしかった。また基本からやり直そうと思った。その瞬間、目の前がぱっと開けて、晴れやかな気持ちになった。
それからは、毎日昼休みにメシも食わずそいつと練習した。(昼休み以外も時間があれば、どこでもやった)
圧腿、[足易]腿、架式、弾腿などをみっちりやった。(圧腿で爪先と口が付くまでになった)
そいつは、やはり高校の頃から武術を始めていた。
自分に合った門派を見つけるため、八極拳、通背拳、翻子拳、少林拳、意拳、太気拳など、いろいろな門派を練習していた。
一年間みっちり二人で練習して、翌年、武術サークルを結成し、仲間を増やした。
いろいろなやつらと交流した。組手もバンバンやった。
いろいろ経験するうちに自分がやりたいものが見えてきた。
そいつは太気拳(意拳)、ボクは通背拳を選んだ。
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